CIVIC ECONOMY LAB

私たちが小さな経済を生み出す方法

ギフト・サークルレクチャーのレポート 講師:熊倉敬聡さん

2016年7月16日(土)に『瞑想とギフトエコノミー』などの著書を持つ、元慶應義塾大学・京都造形芸術大学教授の熊倉敬聡さんを講師に迎え、「ギフト・サークル レクチャー&ワークショップ」を開催しました。ギフトサークルの実践の前に「ギフトサークルとは何か」についての講義がありましたので、今回は、その様子をレポートいたします。

 

熊倉:みなさんこんにちは。今日はギフトサークルのワークショップをやってみたいと思います。その前に、少し座学として「ギフトサークルとは何か」ということについてお話してみたいと思います。

私は20代後半の5,6年、ステファヌ・マラルメという詩人の研究をしていました。文学史的に言うと19世紀末の象徴主義、シンボリズムと言われる流派に属する詩人で、もっと有名な人たちでいうと、アルチュール・ランボーとかポール・ヴェルレーヌとかの流派で、マラルメはそのうちの1人として語られます。

マラルメは、普通の文学史的イメージでは、すごく難解でメタファーが多い詩を書いて、何か哲学的に深遠なことを語っていると思われていて、中でも晩年の15年間ぐらいは極端に難解で奇妙な韻文とも散文ともつかないテキストを書いているんです。

フランス人が普通に読んでも何を言っているか全くわからないようなテキストです。マラルメの研究は、当時、日本人も含めて世界的に小さなブームでいろんな研究もあったのですけれども、そこにはほとんど誰も手をつけない。難し過ぎてよくわからないと言って手をつけなかったんです。

僕は「バカ」だったので、それに無謀にも手をつけはじめて、最初は何を言っているか本当にわからなかったのですけれども、よくよく読み込んでいくと、マラルメが語っていることには大きく二つのことがあると徐々に分かってきたんです。半分は「詩」ないし「芸術」について。そして、残り半分はどう考えても「貨幣」について語っているんです。

といってももちろん貨幣について理論的に書いているのではなく、すごく詩的なメタファー満載で語っているので、一読した限りでは何を言っているのか全然わからないんですね。でも、よく読み込んでいくと、どうやらお金についてすごいことを言っているみたいなんです。そして、結局、フランスでは、「ステファヌ・マラルメの〈経済学〉」という論文を書くに至りました。

僕はそれ以来ずっと、一方で芸術を含めた精神性、スピリチュアリティーに強くひかれて、研究したり、実践したりしていたのですけれども、その一方でたえず社会的なことにも興味があって、最近ではギフトエコノミー(今日は「ギフトエコロジー」という新しい言葉を使ってみようと思いますが)に関心が移ってきて、今日のワークショップに至るというわけです。


熊倉:では、これから「ギフトサークル」というワークショップを行いますが、その前にまず皆さんにお尋ねします。皆さんは、ギフトエコノミーという言葉にどんなイメージをお持ちですか?

参加者A:モノなり情報を見返りなくあげちゃうということでしょうか。

熊倉:ギフトですものね。ではお次の方。

参加者B:地域で短いスパンでお金が回るということでしょうか。

熊倉:ああ、地域通貨のやりとりに近い感じですね。ギフトエコノミー=贈与経済という考え方は、日本でも最近注目されていますよね。例えば中沢新一さんや内田樹さんなんかも、これからはギフトエコノミーの時代だ、贈与経済の時代だと話しているようです。ではなぜそうなのか、ということを最初に少しお話したいと思います。今日は、あえて「ギフトエコノミー」ではなくて、「ギフトエコロジー」という言葉を使おうと思っている理由も、おいおいお話ししていきます。

まず、今日これから行うギフトサークルについてですが、アメリカでは2000年代後半から、主に西海岸特にベイエリアを中心に割と盛んにおこなわれているワークショップのようです。基本的に小規模、どんなに多くても30人ぐらいで行うようです。後で皆さんにも実際にやってもらいますけれども、非常にシンプルなワークです。けれども、いろいろな出来事が起きるようです。

どんなものか見てもらうために、例えばオークランドでやられていたものの映像があるので、それをちょっと見てもらいます。

ギフトサークルというぐらいなので、基本的にはサークル、輪になって座って、オークランドの場合はまずチェックインをしていますけれども、基本的に2回ラウンドがあります。

1回目のラウンドは「NEEDS」、つまり各々が今欲している、あるいは必要としている物とか事をそれぞれ言っていくというラウンドです。

2ラウンド目は「GIFTS」、つまり自分が誰かに提供できる、ギフトできる物とか事を順番に言っていくというラウンドです。

二つのラウンドが終わったら、最後はマッチングの時間をもちます。NEEDSとGIFTSが一致する場合があったら、実際にその人同士が直接話をして、モノを渡したりサービスを提供する場所や日程を決めます。以上がギフトサークルです。

すごくシンプルなワークショップです。これを今日は皆さんと一緒にやろうと思っています。たぶん調べた限りでは、日本ではまだ行われていないようです。先日東京で初めてやってみました。そのときは30人近くの参加者だったのですが、なかなか面白かったです。知り合いの人同士も多かったのですが、知り合いでもその人が今何を必要としているか、何をギフトできるかということを意外と知らなかったりするので、その点でも面白かったです。

ギフトサークルにおいて重要な点は、実際にモノやサービスを贈る、あるいは受け取るときに、貨幣を一切介さないということです。ある意味で地域通貨でのやり取りに似ているのですが、地域通貨は一応数量化しますよね。何ポイントみたいに。ギフトサークルの場合はいっさい数量化しません。しかも、見返りを要求しない。つまり、何かギフトしたい人も、「私はこれをしてあげるから、あなたも何かしてね」というギブアンドテイクの関係ではなくて、ただ単に「私はこういうことをしてあげたい」ということなので、逆にこうしてほしいという人も、してもらったから何かお返ししなければいけないというわけでもない。もちろんしてもいいのですけれども、しなくてもいいんです。

チャールズ・アイゼンシュタイン(Charles Eisenstein)という人が、ギフトサークルを含めたギフトエコノミー全般を論じた『Sacred Economics』(聖なる経済学)という本を出しています。そこでなぜ今ギフトエコノミーなのかということを、理論的・歴史的に論じています。興味がある方は、英語バージョンを無料でネットで入手できますし、ボランティアの人たちが翻訳した日本語のテキストも入手できますのでぜひ読んでみてください。


熊倉:さて、ここから少し理論的なお話をさせていただこうかと思います。

資本主義経済からギフトエコロジーへ、あるいはaccumulate(蓄積すること)から、circulate(流れ・循環すること)へとテーマでお話ししようと思います。

日本のような国に住んでいると、いわゆる資本主義経済という経済システムの中にいやが応でも属しながら生きなければいけません。では、いったい資本主義経済って何なんでしょう? どんなイメージをお持ちですか。

参加者C:貨幣ですかね。お金。物を買うにしてもサービスを受けるにしても、基本的にはお金を媒介とします。

熊倉:そう、貨幣が媒介する経済ですね。基本的にお金がないと何も買えない、入手できない。では次の方どうですか。

参加者D:豊かな人とお金を持っていない人の差が生まれている。

熊倉:貧富の差が生まれている社会。そうですね。

資本主義経済についてはいろいろな定義もあるし、いろいろな理論もあるのですけれども、今日はコンビニを切り口に資本主義について考えてみましょう。

今コンビニにいると思ってください。それで、100円玉で100円の何かを買う。例えば、100円のおにぎりを買うというシーンを想像してください。それを別な言葉で言うと、100円という貨幣と100円の商品を交換することですね。

今、コンビニで100円玉を渡して100円のおにぎりを買うという行為が「等価交換」かどうか。あるいはそうではなく「不等価交換」なのか。等しい価値の交換なのかそうでないのか。3人ずつ集まって、考えてみてください。

(グループで話し合い、約4分間)

熊倉:では、そろそろいいですか。答えとしては4パターンあると思います。

  1. 等価交換である
  2. 不等価交換である
  3. 等価交換であり、かつ不等価交換である
  4. 等価交換でもないし不等価交換でもない

後のふたつは論理的におかしいのですけど、一応この4パターンがあると思います。では、何人かに聞いてみたいと思います。

参加者E:等価交換であり、かつ不等価交換でもあると思います。

熊倉:その心は?

参加者E:「おにぎりは100円だ」という絶対的な前提があれば等価交換ですけれども、そもそもその前提が正しいのかどうか。原価から積み上げるのか、それとも売り手と買い手の交渉で決まるものなのかということを考えたときに、そもそも100円のおにぎりという前提がないのではないのかと思いがあって。前提があれば等価交換。その前提が実は虚構でしかないのかなという意味で、不等価交換。

熊倉:ありがとうございます。ほかの理由で等価交換であり、かつ不等価交換だと思う人はいますか。

参加者G:最初、私は等価交換だと考えました。たとえそのおにぎりの価格の中に人の労働や会社の利益などいろいろな要素が入っていたとしても、それに対して買い手の人がいいよと言って買う以上、等価交換と言っていたのですけれども、ただその1つのおにぎりを買いましたということだけでは終わらないもの、それに何かまた付加しているものがあるのではないかという意見がグループの中から出て。

熊倉:その「終わらないもの」って、何なのですか。

参加者G:次に回される利益という意味です。

熊倉:なので、等価交換であり、かつ不等価交換なんだということですね。ありがとうございます。

答えは、大方の方がおっしゃったように「等価交換でありかつ不等価交換である」です。ここに実は資本主義経済の根本というか、一番コアなからくりがあります。

コンビニで100円硬貨でおにぎりを買うとします。買う側の視点に立つと、100円という定価が付いているおにぎりに100円払っているんだから、等価交換です。

それでは、売る側の視点に立って考えてみましょう。100円のおにぎりを作るのに仮にコストが100円かかって100円で売っていたら儲からないですよね。だから普通は100円では売らないわけです。ということは、売る側にとっては必ずその100円の中にコスト以外の儲け=+αが組み込まれていることになります。その+αを経済学では剰余価値とかいいますが、それが組み込まれているんですね。

なので、100円硬貨で100円のおにぎりを買う行為は、買う側にとっては100円の定価に100円払うので等価交換だけど、売る側にとっては、定価100円の中に必ず+αが入っているので不等価交換なんです。その買う側と売る側の視線の不均衡を巧妙にいろんな交換の場で活用していくのが資本主義経済のシステムなんです

例えば、マルクスは『資本論』の中でこの視線の不均衡を「(労働力を)買う側=資本家/(労働力を)売る側=労働者」として分析しているわけです。労働者は労働力を資本家に売ります。その労働力を買う資本家が、その労働力を利用して商品を生産し、マーケットで売る。そして、その商品の価格は、原則的に、それを生産するコスト以上のもの、すなわち必ず+α=剰余価値というのを含んでいる。ところが、その剰余価値生産のメカニズムは、生産活動の末端にいる個々の労働者には見えない。そうした産業活動に内在する、労働者と資本家の間の視線の不均衡を、マルクスは『資本論』という長い本でいろんな角度から分析しています。

資本主義経済については、いろんな定義がありますけど、今の文脈で言うと、+α=剰余価値の取得の極大化を目指して、個人ないし企業が競争しあうことによって発展する経済システムということができます。

ここで、「経済」を仮に、ある社会、コミュニティの中で生産される財やサービスをいかに最適に配分していくか、その仕組みのデザインとして規定した場合、資本主義経済はどう見えるでしょうか。

まず、生産と消費という関係から見ると、基本的に資本主義経済というのは、生産するのは企業、そして消費するのは個人といえます。もちろん消費者である個人も企業で働いている場合もあるわけですが、最終的な消費のほとんどは個人がしている。

資本主義経済には、上記の「経済」の定義からするといくつか問題点があります。

まず第1の問題点は、社会的配分が最適かどうかと考えると、資本主義経済は必然的に貧富の差を生み出してしまうので、社会的配分は最適化されない。つまりお金をたくさん持っている人はあらゆるものにアクセスできるけれども、お金を持っていない人のアクセスの可能性は非常に限定されてしまう。

例えば、アメリカの例で言うと、貧しい階層の人々は、例えば子どもが重病になってもお金がないために満足な医療を受けられない。教育もそうです。お金がないことによって良い教育が受けられない。あるいは、富豪であれば、実際は一月に1回しか乗らなくても、ロールスロイスのような車を何台も持っている。無駄なわけですね。

それから、2番目の問題点としては、生活がイコール消費である、ということがあります。つまり個人の生活を構成するほとんどすべてのアイテムやサービスがお金で買ったもので構成されてしまう。極端に言うと我々はコンビニやスーパーの中で生きている。日本はまだそこまでいっていませんけれど、アメリカなんかだと、家事労働、たとえば掃除、洗濯、育児なども、お金を払って他人にやってもらう。家事まで、購買し消費するものになっている。

3番目の問題点としては、そうやって様々な「買う/売る」場面で生まれる剰余価値を蓄積すること自体が自己目的化していって、最終的に実体経済におりないまま、どんどんその余剰のマネーが世界中で蓄積されていき、逆に実体経済に悪影響を及ぼす。20世紀初頭から現在まで、大恐慌からリーマンショックまで、そうして事態をたくさん経験していますよね。

4番目の問題は、自然、社会関係、そして自分自身の資源を搾取することです。例えば自然の資源の搾取については皆さんもよくご存知だと思うので、あえて説明しません。社会関係については、例えばさきほどのコンビニの例にあったように、人間関係が基本的にレジ的関係、つまりお金と商品の交換の関係でしかない。人間と人間が出会っているにもかかわらず、お互いが知り合うということが限りなくゼロに近くなっている。そういう関係が基本的にあります。最後に自己の資源の搾取について言えば、例えば、○○さんがいろんな可能性やポテンシャル、能力や技術を持っているのに、仕事としてはそのごく一部しか使っていないという事態です。

では、そういう経済システムでずっとやっていていいのでしょうか? 20世紀になってからいろんな人が問題点を指摘したり、それをどうやって乗り越えるのかということを模索しているわけです。

ベルナルド・リエター(Bernard A. Lietaer)という人が書いた『マネー崩壊』という本があります。この人はEUの通貨システムをデザインした人なんですけれども、彼は、道教の陰陽論を使って、経済には実は「陽の経済」と「陰の経済」があると言っています。陽の経済というのは資本主義経済のことです。19世紀以来、陽の経済つまり資本主義経済が世界中にはびこってしまいました。

そして陰の経済とは、補完経済です。必ずしも貨幣を介することなく、しかし社会的に重要な財やサービスをやり取りする経済。例えば人にプレゼントをあげたりボランティア活動をしたり、陽の経済に比べると規模の小さい経済ですが、社会には、それも不可欠な経済であるとリエターは言うわけです。にもかかわらず、20世紀以来、陰の経済があまりにも弱くなっている。

でも、今後の人類の経済活動においてはこの陰の経済=補完経済を増やしていかないと、さらに陽の資本主義経済だけが膨らんでいって、それが自滅すると同時に人類全体の崩壊を招くだろうと、リエターはいうわけです。

この陰の経済をいかに豊かにしていくかというのが『マネー崩壊』という本の重要なポイントの1つです。その陰の経済の核の1つになるであろうものがギフトエコノミーではないかと僕は思っています

ギフトエコノミーとは何かというと、これもいろんな定義があると思うのですが、まず前提として、資本主義のように個人が単なる消費者ではなく、同時に自分の生活の生産者であるという経済です。

つまり、今までお金を払って買っていたもの、消費していたものを自分自身でつくり出していくような経済。例えば野菜をスーパーで買うのではなく、少しでもいいから自分でつくってみるという経済です。

そしてそこに先ほどの社会的配分の最適化という観点を持ち込むと、例えば自分の畑でつくった野菜が自分で消費する以上に余った時、余って腐らせるんじゃなくて、それを欲しい人、必要としている人に提供する。そういうことをあるコミュニティの中で互いにやっていくと、そのコミュニティの中で自然に資源の配分が最適化していく。もちろんギフトエコノミーでも、自分の生活を維持するための最小限の蓄積は必要でしょう。例えば自分でお米を作っている場合、1年間に家族を養うだけの蓄積が必要なわけですけど、それ以外の余剰分は、それを必要としている人に流す、サーキュレートしていく。


熊倉:ところで、今日はこれから「ギフトエコノミー」という言葉の代わりにあえて「ギフトエコロジー」という言葉を使いたいと思います。

この言葉は、日本では、「東京アーバンパーマカルチャー」という活動をしていて、『都会からはじまる新しい生き方のデザイン』という本を書いたソーヤー海さんが最近使っている言葉です。「ギフトエコロジー」という言葉で、単に経済活動だけでなくて、もっと人間の社会生活全般の成り立ちを「ギフト」を軸に変えていこう、その思想を「ギフトエコロジー」と呼んでいます。今日はこの言葉を使っていきたいと思います。

海さんから離れて、私流に解釈しなおすと、ギフトエコロジーとは基本的にこういうことになると思っています。

我々は、太陽を含めて宇宙からいろんな自然のエネルギーをもらっています。そのエネルギーのギフトは、一方的に贈与されるもので、お返しをすることが不可能なので、「純粋贈与」ということができます。その純粋贈与されるエネルギーのおかげで我々人間を含めた生物は生存が可能になっています。

人間以外の生物は単にそのエネルギーを生命体としてのシステムを円滑に機能させるために使うわけだけれども、人間の場合はそのような生物的エネルギーを精神化し、「気」として単に生命体の維持だけでなく、精神的営みのエネルギーとしても使います。その「気」は、臍下丹田とよばれるところに溜まっているのですが、何らかの訓練をしなければ、溜まりっぱなしでそれがうまく活かされることがない。その溜まっている気をいかに解放し、心身の健康と鍛錬に役立てるか、それが、東洋のあらゆる「道」や「術」の基本になっています。

その気の解放と鍛錬を、瞑想や武道などを通して深めることができるのですが、僕は、それだけでなく、生活を彩るあらゆるモノづくりもまた、その気が可能にするように思うんです。目の前の素材(野菜でも土でも布でも)にいかに気を注いで、形を成していくか、そうしたモノづくりこそが、これからの「芸術」であるような気がしてならないんです。美術館やコンサートホールといった日常生活から切り離された特別な場所で崇め奉って観たり聴いたりする芸術ではなく、日々の生活をいかに豊かに彩るか、そうした「芸術」こそがこれからの芸術ではないでしょうか。僕は、それを(うまく日本語にできないので)「Art of Living」と仮に呼んでいます。

そうしたArt of Livingによって作られた品々を、もちろん自分(の家族)だけの生活を豊かにするために用いてもいいのですが、作りすぎてしまったものを自分の身近な人たちにあげる、ギフトする、そうしたことが自然に起きてくるのではないでしょうか。そうしたArt of Livingの贈りあいこそ、新しい経済の形、ギフトエコノミーだと思うんです。

宇宙から純粋贈与されるエネルギーが、人間の中で気となって、それが様々なArt of Livingを生み出していく、そしてコミュニティの中でそうした品々・サービスを互いに贈りあう、そうしたエネルギーと気の流れ・循環、circulationが、ギフトエコロジーだと思います。

それに対し資本主義経済というのは、circulation=流れ・循環ではなくて、accumulation=蓄積・鬱積、エネルギーやマネーが蓄積し鬱積していく状態をつくっていくシステムです。

例えば環境で言うと、自然からいろんなエネルギーを勝手に収奪して、それを産業に役立てた後は、ゴミ=廃棄物として自然に捨て、溜めていく。それだけでなく、核反応という極度に人工的な技術をつかって、原子力エネルギーというなくてもいい人工的なエネルギーを大量に作り出し、鬱積させる。それらのエネルギーを、地球上の企業は生産活動に湯水のように使って、マネーという、極度に観念的な価値を極大化して、蓄積するために、競い合う。こうしたエネルギーとマネーの鬱積が、世界の経済だけでなく、人々の生活まで牛耳っている。

さっきのベルナルド・リエターの図式から言うと、陽の資本主義経済=大きな経済は当分なくならない。だけど、そればっかりがはびこっていると、人類はそのうち自滅していくだろうから、それを補完する経済、陰の経済をいかに増殖していくかが、人類のサスティナビリティを大きく左右する。その陰の経済の1つの小さな試みとして、今日ギフトサークルというのをやってみたいと思っています。

お話は以上です。それではギフトサークルの実践にうつりましょう。